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デカルト
私は身体ではなく、考えるものである
世界は疑える。
目に見えるものは、間違っているかもしれない。
手で触れたものも、夢かもしれない。
昨日の記憶も、どこまで確かかわからない。
この身体さえ、本当に私のものなのか疑うことができる。
しかし、疑っているということだけは残る。
身体が疑わしくても、疑っている私はいる。
世界が疑わしくても、世界を疑っている私はいる。
感覚が嘘でも、感覚を疑う私だけは消えない。
ここで、脱身体の思想は大きく姿を変える。
魂が身体を離れて真理へ向かう、という宗教的な形ではない。
物質世界から救済される、という神話的な形でもない。
欲望を制御する、という修行の形でもない。
私は身体ではなく、考えるものである。
この一文の中で、人間の中心は肉体から思考へ移る。
手足ではない。
胃腸ではない。
皮膚ではない。
性ではない。
老いではない。
痛みではない。
考えている私。
ここには、奇妙な静けさがある。
身体のすべてをいったん括弧に入れ、なお残るものを探す。
すると、肉体よりも細く、世界よりも狭く、しかし決して消えない一点が現れる。
考えている。
疑っている。
だから私はいる。
この「私」は、身体を持っている。
しかし、身体そのものではないものとして取り出される。
脱身体は、ここで認識論になる。
身体を脱ぐのではない。
身体を疑う。
世界を疑う。
感覚を疑う。
そして、疑いの中心に、身体ではない私を見つける。
だが、この私もまた、完全には身体から出られない。
考えるためには、疲れない身体がいる。
疑うためには、眠らない脳がいる。
言葉にするためには、呼吸がいる。
机に向かうためには、背中がいる。
身体ではない私を見つけた瞬間にも、その私は身体の中で考えている。
ここに、近代的な脱身体の美しさと矛盾がある。
——観測終了。