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水槽の脳
身体を取り外しても経験は続くのか
脳だけがある。
身体はない。
手も足もない。
胃も腸もない。
皮膚もない。
目も耳も、実際には世界に開かれていない。
ただ脳だけが、培養液の中で生かされている。
外部から信号が送られる。
歩いている感覚。
誰かと話している声。
机の手触り。
雨の匂い。
朝の光。
恥ずかしかった記憶。
好きだった人の顔。
本人は、世界の中で生きているつもりでいる。
しかし実際には、世界はない。
身体もない。
ただ、脳と信号がある。
水槽の脳は、脱身体の一つの極限である。
身体を取り外しても、経験は続くのか。
外界がなくても、適切な入力があれば世界は立ち上がるのか。
私は身体ではなく、脳の中の経験の束なのか。
ここで身体は、いったん不要なものとして扱われる。
歩くには足がいる。
だが、歩いていると感じるだけなら、足はいらないかもしれない。
見るには目がいる。
だが、見ていると感じるだけなら、目はいらないかもしれない。
世界に触れるには皮膚がいる。
だが、触れていると感じるだけなら、皮膚はいらないかもしれない。
しかし、この脱身体にはすぐ逆説が現れる。
脳だけになっても、脳はまだ物質である。
温度がいる。
栄養がいる。
液体がいる。
電力がいる。
装置がいる。
管理者がいる。
身体から抜け出したつもりの脳は、水槽という別の身体に預けられる。
肉体を捨てても、維持装置がいる。
世界を捨てても、入力装置がいる。
感覚を捨てても、信号がいる。
水槽の脳は、身体から出たい精神に、冷たい問いを返す。
身体を失っても、本当に自由になるのか。
それとも、身体のかたちが変わるだけなのか。
——観測終了。