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血縁という肉の制度
身体の由来を押しつけられる場所
家族がいらないのではない。
しかし、身体から出たい者にとって、家族はしばしば耐えがたい。
なぜなら家族は、身体が自分ひとりのものではないことを突きつけるからである。
顔。
声。
骨格。
肌。
体質。
病気。
気質。
怒り方。
眠り方。
太り方。
老い方。
死に方。
それらは、自分のもののようでいて、自分だけのものではない。
選んでいないのに、与えられている。
望んでいないのに、似てしまう。
嫌っているのに、受け継いでしまう。
離れたいのに、身体のどこかに残っている。
家族とは、愛の共同体である前に、身体の由来を示す制度である。
誰に似ている。
どちらの家系だ。
この体質は遺伝だ。
その性格は親にそっくりだ。
年を取ると、きっと同じようになる。
そう言われるたびに、身体は自分だけのものではなくなる。
身体から出たい者にとって、この事実はとても重い。
なぜこの身体なのか。
なぜこの顔なのか。
なぜこの神経なのか。
なぜこの体質なのか。
なぜこの不安なのか。
なぜこの血なのか。
なぜこの家なのか。
身体には答えがない。
ただ、そう生まれてしまったという事実だけがある。
しかし、人はその事実だけでは耐えられない。
だから、身体の苦しさはしばしば由来へ向かう。
親が悪い。
家が悪い。
血が悪い。
生まれが悪い。
遺伝が悪い。
環境が悪い。
もちろん、実際に家族が加害的だった場合はある。
その場合、責任の所在は曖昧にしてはいけない。
けれど、それとは別に、もっと深いところで、家族は身体の責任を背負わされる場所になる。
この身体で生まれてしまったこと。
この肉で生きなければならないこと。
この顔で人前に出なければならないこと。
この神経で世界を感じなければならないこと。
この体質で老いていくこと。
そのどうにもならなさが、家族へ向かう。
家族は、自分の身体が自分だけのものではないと告げてくる。
身体には由来がある。
身体には血がある。
身体には履歴がある。
身体には似てしまう相手がいる。
だから、身体から出たい人は、しばしば家族からも出たくなる。
家族が嫌いだからではない。
血縁が悪だからでもない。
ただ、家族は、身体の逃げられなさをあまりにも近くで示す。
自分の中に、他人がいる。
自分の顔に、親がいる。
自分の声に、家がいる。
自分の病に、血がいる。
その事実が耐えがたい。
脱身体の情緒は、身体単体の問題ではない。
身体には由来がある。
その由来として、家族がある。
血縁とは、選べない身体に理由を与えてしまう制度である。
——観測終了。